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手を洗う。念入りに洗う。ハンカチで拭いて鏡を見て確認。 よし。 少しだけ紅を引いた唇を確認して化粧室を後にする。 わたし──サキは随分と今日の事が楽しかった様だ。 買ったばかりの服が入れられた紙袋を離さず持っていた事からもわかる。 何度も何度も秋穂さんと一緒に選んで試着して。恭平兄さんにチェックされて自分で選んだお気に入りの一着。 白のワンピース。そして靴。秋穂さんが髪を下ろしてくれて梳いてくれた。 化粧台に座る時にはもう母さんはいなかったけれど。母さんがやってくれたように優しく梳いてくれて。 見られないように──少しだけ泣いた。 わたしには両親はいない。物心ついたときにはもういなかった。 他に血のつながったものはいれど。人間として扱われた事はなかった。 血は力。祖は鬼。化物である鬼の血を引くとされた我が家では恒常的にその衝動を高め”力”を増すために人を殺した。 人の繋がりがわたし達を日常に食い止める力となるならば。 それを断てば人間性を捨て非日常に生きる力へと変える。タイタス。──喪う事で得られる力。 だから。わたし自身幼い頃より意図せず鬼を生み出し。──知らない誰かを呪殺した。 殺して殺して殺し続けた。告げられるままに。何の疑問も抱かず。 ファルスハーツという組織に捧げられる鎖に囚われた一匹の鬼。それがわたしだった。 そこから逃げたのは。──家の当主即位の儀式…鬼降ろしの儀にてわたし自身が。鉈を持って。眼前の幼い時より仕えてくれた親友を。 ──殺したからだ。 力を示した”祖父”は狂喜した。”お役目”達も。 わたしは血塗れになって。物言わぬ親友の身体を見て。闇が満ちて薄暗く広い室内で叫び続けた。 それまで行なってきた事が。とても。怖くなって逃げた。逃げに逃げた。 顔も見たこと無い父や。目の前で死んでしまった母にも。助けを求めて叫んで。裸足のまま走り続けた。 気がついたら。 黒巣、と呼ばれる土地に辿り着いていた。 そこで。──そう。暫くの間一人で生活していた。 わたしはその間の事を。何故か『思い出せない』。 仕事で誰かと会い、父の仇を狙い、失敗し。恭平兄さんに助けられた時まで──。 覚えが無い。思い出せば。鈍痛と共にぼんやりと霞がかった事項だけが思い出される。 今までただ生きる為だけに生きてきたわたしは。現在の風景が愛おしく。同時に失う事が怖い。 そう。わたしの昔の事を『知られてしまう』事で。 鬼として。狩られる事が怖い。 実はそれだけでもない。 家から遠い昔に失われたモノが。この土地に。ある事を知ってしまった。 そして『それ』を本能的に求めているわたしは。 逃亡の日以来禁じてきた人を殺して奪い返す事に。衝動に任せて行動する事に。──強い抵抗を得ていた。 それは日々日中。気を抜いたときに襲ってくる衝動。 この衝動に任せた時は。 そう。紛れも無い。わたしは──鬼と呼ばれる存在となる。そして人と対峙する。 ──『仇を討つ』『殺し奪われたものを取り返す』『殺人の過去を知られてしまう事』 これまで望んで過ごしてきた心安らかで平穏な生活を捨てる要素。 それまでは何も感じず。何も考えず。歩いてきた道が。容易く暗闇に落ちる。 本当は今まで歩いてきたように己の周囲は闇なのだ。ただ蝋燭を手に取り僅かな灯を灯しただけの事。 その灯はかぼそく容易く消える。 だが──その灯さえ掻き消してもいいと思えるほどの甘美な誘惑にかられる。 元より棲む場所は闇なのだと。心が指し示す。それをわたしは必死に否定しているのだ。 大切にしてくれた人を。大切だと思う人を。 殺して。砕いて。潰して。鬼として成る。そのあまりに馬鹿げた欲求に耐え続けている。 背を押すのは狂気をもって力を求めてきた家という名の檻。人の業。 涙が出てきた。 ショーウィンドウの向こうのわたしは。笑顔なのに。涙の筋が見えた。 不審な顔をして子供が脇を通り過ぎる。 大丈夫だ。大丈夫。 わたしは言い聞かせ。待ち合わせ場所に向かう。 角を二つ曲がり、婦人服コーナーの脇を通り、エレベータ前の広場に。 誰もいない。 恭平兄さんや秋穂さんだけでなく。誰も。彼も。 わずかに血の匂いがして。 「よぅ。遅かったじゃないか。鬼姫」 非日常からの来訪者が現れた。 姿形は人の男だったが。その瞳は歪んだ黄金の色を湛え。ゆらゆらと揺れていた。 こいつは。──鬼だ。 何も持って無い。だから欲しがる。そんな──鬼だ。 |
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